握りつぶしたタバコに火を点けて(第四話)
あんなに何度も繰り返しているのに信じきってくれない。安心してくれない。
どんなに心を砕いて言葉・態度で示しても、最後の最後で踏みとどまっている。

ねぇ、もういいんだ。いいんだよ。

こんなにしても気づいてくれないなら、いっそ最期の時まで与え続けようと思う。
あなたが注いでくれた愛情を、同じように、それ以上の大きさで返したい。


今夜は帰ってこない筈の兄さんが深夜に帰ってきた。
そのとき僕は既にベッドのなかで、暖かい毛布に包まって夢現をさまよっていた。うっつらと、眠り落ちそうなその時、玄関で物音がした。だけど、夢かもしれないと、暖かい毛布の誘惑に負けて再び夢に落ちようとすると、次第に物音は近づいてきて隣の部屋に入っていった。
兄さんの部屋に誰かが、侵入してしまった。
そう思って、慌てて頼りにならなそうな分厚い辞書を掴み、おそるおそる隣室に近づく。ドアをゆっくりと開き中を覗いてみると、見慣れた頭がベッドにのめり込んでいた。
カーテンの隙間から月光が差し込み、その光が兄さんの髪に吸い込まれ反射する。昼間会って会話した筈なのに、なんだか久しぶりに会うような気がした。思わず呼び込まれるように近づいてみると、ツンと酒の匂いが鼻を衝く。続いて、夜中に起こされたのだと気づき、なんだか腹が立ってきて、部屋に戻って寝た。

――それがいけなかった。

夜中に中途半端に起こされてしまったせいで、よく眠れなかった僕は寝坊した。トースト一枚を焼いて食べる時間もない。慌しく支度をして部屋を飛び出す。ついでに、隣の部屋をノックする。「兄さん、いってくるね」声をかけてみるが返事はない。ドアの向こうは静かだった。
勝手に遅くに帰ってきて、人を起こして、朝はゆっくり寝てるなんて理不尽だ。ひどい。なんて兄貴だ。と思ったけど、まぁ兄さんらしいって言えばらしい。
そんなわけで朝食を摂れなかった僕は、午前の講義は途中から空腹が気になって、教授の話は右から左だった。
生物学の講義が終わり、構内のカフェテリアへ直行する。カフェ・ラテとバケットサンドを迷わず注文した。学生相手のカフェテリアだから値段の割りにボリュームがすごい。今日の日替わりサンドはスモークチキンとサラダマリネが間に挟まってる。具が溢れんばかりのバケットサンドにかぶりつくと、レモンの香りとペッパーが程よく効いていた。
そういえば、兄さんはちゃんとご飯食べたかな。サラダマリネのドレッシングが親指についた。それをペロリと舐めとりながら僕は冷蔵庫の中身を思い出す。確か、牛乳は入っていた。でも、兄さんは絶対に牛乳は飲まない。オレンジジュースは、コップ2杯分はあるかな。パンは、なかったはず。ハムやウインナーもあったか怪しい。卵はある。野菜は……そこまで考えてなんだか馬鹿馬鹿しくなった。
なんで僕が昨日遅くに帰ってきた人のことを心配しなくっちゃいけないんだ。そもそも冷蔵庫の中身がさびしいのは全部兄さんのせいなんだ。最近、兄さんが帰ってこないから、僕は夕食を作るときに食べきれる量しか作らない。
昨日だって、兄さんが久しぶりに帰ってこないかと期待していたんだ。そしたら、夕食の材料を一緒に買って帰ろうって。いろいろ話しながら帰ろうって、そう思っていたんだ。
それなのに、帰ってこないって言ってたくせに、夜中に帰ってきて人のこと起こすし、そのせいで僕は寝坊するし。兄さんは起きてこないし。
考えていくうちに、だんだん悲しくなった。
一緒に暮らしているのに、定住しているのに、根無し草で旅していたときの方が兄さんとの距離が近い。生身の体の今より、鎧の時のほうがずっとずっと距離が近い。
思考がずんずん沈んでいって、目線も下がっていく。
バケットサンドはまだ半分ほど残っている。講義が気にならないくらいお腹が空いていたのに、今はそれが入らない。
美味しそうなスモークチキンとサラダマリネが僕を誘うが、もう食べる気にはなれなくて、頭の中がぐるぐる廻る。

どうして、こんな事になっちゃったんだろう。
どこで僕らは間違ったんだろう。
僕が学校に通ってしまったからか。
でも、それは兄さんが言い出したことだから、原因はきっとその前。
セントラルに来てから、僕が学校に通うまでのおよそ3ヶ月間、僕らは幸せに暮らしていた筈だ。
一体どこで、何を、間違えてしまったんだ。

一度廻り始めた思考は、どこが終いなのか解らずぐるぐる廻って、廻り続けてしまう。そうなってしまうと、食事をするどころではなく結局、バケットサンドを食べるのを諦め、暖かいカフェ・オレを喉に流し込んだ。

廻り始めてしまった思考回路は、午後の講義が始まっても止まるどころか勢いを増して、気持ちまでぐるぐるとさせた。こうなっては仕方がない。今日の講義は諦めて、帰ろう。帰って、兄さんの首根っこを押さえてででも話そう。
そうでもしなきゃ、前に進めない気がしたんだ。


――なんでもっと早く気づけなかったんだ


「兄さん、いるっ?」

帰ってきて早々、僕はドア越しに兄さんに声をかけた。けども、ドアの向こうは相変わらず静かだ。僕は少しむっとしつつも、いったん荷物を自室に置いて、もう一度声をかけた。

「兄さん、いるんだろう」

返事はない。でも、ドアの向こうに人の気配はする。

「ねぇ、聞いてる?兄さん、開けるよ」

気持ちが焦っていたのと、昨夜も含めて苛立っていたのもあって僕は返事を待たずにドアを開けた。ベッドの上は盛り上がって、兄さんの金色の髪が毛布から覗いていた。
その様を見て、ずっと寝ていたのかと呆れて僕は近づく。一体何があったんって言うんだ。僕のほうが、悩みすぎて寝込みたい気分だ。

「兄さん、いい加減起きろよ。もう昼過ぎてるんだよ」

毛布を剥ぎ取ってやろうと、手をかけたところで僕はようやっと異変に気づいた。

「・・・・・・兄さん」

ぐったりして呼吸が荒く、寒い時期だというのに嫌に汗をかいていた。

「兄さん、兄さんどうしたのっ」

冷静に考えれば、風邪だって分かるのに、気が動転した僕はそんな些細な事実さえ考え付かない。

「・・・・・・あ、る?」

僕が呼びかけると、兄さんはうっすら目を開けて、掠れた声で僕の名前を呼んだ。
こんなに弱っている兄さんを見るのは、久しぶりで、そうでなくてもいつも元気な人だからそのギャップに僕は動揺していた。

「兄さん、兄さん。どうしたの、具合わるいのっ?」
「・・・・・・ちょっと、な。かぜ、かも・・・・・・しれない」

見れば分かるって言うのに、僕は馬鹿みたいなことを兄さんに問う。兄さんは辛そうに口を動かして、うっすら笑って答えてくれた。でも、答えてくれる間のどが苦しいのか、苦しそうに息を吐く。それが、僕を不安にさせた。

「みず、くれねぇか・・・・・・」
「あ、うん。すぐ持ってくるよっ」


予想だにしなかった現状に、動揺した僕はただおろおろしてしまって、いつもなら簡単に気づくことも気づけなかった。ミネラルウォーターとコップだけを用意して兄さんの部屋に駆け戻る。水を飲ませてから、兄さんが酷く汗をかいていたことを思い出して、急いで着替えを取り出すが、体を拭かなくちゃいけない事に気づいて急いでキッチンに駆け込んでホットタオルを用意する。
バタバタと家中を駆け巡り、ようやっと落ち着いたのは兄さんが再び眠りについてからだった。
ああ、兄さんが次に目を覚ましたら暖かいスープでも作ってあげよう。
ベッドの脇に椅子を持ってきて腰掛ける。兄さんの呼吸がだいぶマシになってきたことにホッとする。

同じ遺伝子が入っているはずなのに、どこか違う顔。金色の髪も睫も、今は伏せられている瞳も、同じ遺伝子で出来ているはずなのに、僕のものより兄さんのほうが綺麗な気がする。
恥ずかしい考えにはたと気づいて僕は知らず真っ赤になる。もしかしなくても、疲れてるかもしれない。なんだかずっと、忙しかった気がする。こうやって、落ち着いて兄さんの顔を見るのは本当に久しぶりだ。

汗でしっとりとした前髪をそっとずらして、兄さんの額に手を当てる。体温が伝わってくる。当たり前だけど、すごく、温かいと思った。

「にいさん・・・・・・」

起こしてしまわないように、そっとつぶやく。

「なんで、こんな風になっちゃったんだろ・・・・・・」

改めてつぶやいたら、それは重く心にのしかかってきた。すべてを取り戻したはずなのに、何かが違う。幸せなはずなのに、「幸せ」と感じきれない僕がここにいる。

「・・・アル?」

起こしてしまったか。兄さんが辛そうな顔で僕の名前を呼んだ。

「ごめん、兄さん。起こしちゃった?」

僕は、自分の考えがとても申し訳なくて、兄さんの顔を見れなかった。自分の事を投げ打つ覚悟で今を手に入れてくれた兄さんを否定している気がしたから。

「ちがう」

言葉と共に、兄さんの暖かい手が、僕の頬に触れた。一瞬、考えを見透かされての否定かと思い、体が強張ったけど、ちがった。

「なんか、呼ばれた気がした・・・・・・」

兄さんが優しく僕の頬に触れる。

「アル、何でお前、泣きそうなんだよ」

兄さんは力なく笑う。

「泣きそうなのは、俺だって言うのに・・・・・・」
「なんで、兄さんが泣きたいんだよ。泣きたいのは、僕のほうだ・・・・・・」

熱のせいで兄さんはとても辛そうだ。でも、僕だって辛い。だって、最近の兄さんは今までの兄さんじゃないみたいなんだ。煙草は吸い始めるし、家に帰ってこないし、ご飯も食べてくれないし、僕のこと避けるし、一緒にいてくれないし。
嗚呼、眼前が歪んで兄さんの顔が分からない。

「最近の兄さん、おかしいよ。なんだよ、ひどいよ、ずるいよ。も、何考えてるのか全然わかんないっ・・・・・・うっ、あーもー、なんでこんなに僕が泣かなくちゃいけないの。意味わかんない。全部兄さんのせいだ」

耐え切れなくなって、僕はぼろぼろ涙をこぼした。きっと、兄さんの頬に当たってしまっている。気持ち悪いかもしれない。でも、そんなこと僕のしったこっちゃない。

「アル」

兄さんが僕を呼ぶ。

「知らない。自分勝手な兄さんなんかもう知らない」
「アルフォンス」

小さい頃から変わらない、僕の名前を呼ぶときにだけ少し柔らかくなる、優しい声で僕を呼ぶ。兄さんはベッドから半身だけを起こし、僕に向き直って、僕の顔を覗き込むようにして問いかける。

「なんでそんなに泣くんだよ。俺のほうが泣きてぇくらいだったのに」

そんなに泣かれたら、兄ちゃん泣けねぇじゃんか。

「・・・・・・兄さん?」
「アル、なんでそんなに泣いてるんだよ」

兄さんは辛そうな顔で、けども優しい声で聞いてくる。質問に答えるべきだろうけど、僕はさっきの台詞がひっかかった。

「アルフォンス、俺に言いたいことがあるなら言えよ」

眉根を寄せて、なにかを押し殺すようにして、兄さんは僕に笑って言った。

「何が嫌だったんだ?不満だったんだ?言ってくれれば直すから・・・・・・離れるから」

そう言った途端、兄さんの金色の瞳から涙が伝った。静かに、滑り落ちた。

「にいさん・・・・・・」
「アルフォンスもずっと俺に付きまとわれるんの嫌だろ。ずっと、リゼンブールに帰りたいって言ってたもんな。ごめんな、俺が勝手に決めて、セントラルなんかに縛り付けて。大学行くより、ウィンリーやばっちゃん達と暮らしたいよな。ホントごめん、俺の勝手で振り回して・・・・・・」
「兄さん」
「けど、もういいや。お前ももう、子供じゃねぇもんな。ちゃんと、生きれるもんな。俺がいなくても、むしろ俺よりアルのほうがしっかりしてるか」

ははっ、と兄さんは笑うけど、その瞳からは涙が途切れることなく伝い落ちる。
ああこのヒトはいつもそうだ。なんでたってすべてを背負い込もうとするんだ。僕が言いたかったのはそうじゃない、そうじゃないんだ。
言葉で言っても、行動で示しても、きちんと受け入れてくれないバカ兄が愛しくてしょうがなかった。涙が再び僕の眼前を歪ませる。なんてバカなんだろう、この兄貴は。僕はボロボロの状態で、兄さんを抱きしめた。僕の腕にすっぽり収まってしまう小さい身体。けども、小さい頃からずっと僕を守ってくれてた、大きな存在。

「兄さん、ちがう。ちがうよ。そうじゃない・・・・・・僕はずっと不安だったんだよ、寂しかったんだよ」
「アル・・・・・・」
「兄さんが何も言わずに、いなくなっちゃうんじゃないかって。そう思って、それが怖かったんだ・・・・・・」

僕に襲い掛かってた、ぐるぐるした気持ち。泣いて、兄さんの体温を感じて分かった。家族がいなくなるのが怖かったんだ。
理解した気持ちを打ち消したくて、僕は兄さんをぎゅうぎゅう抱きしめた。兄さんは鍛えてるから、これくらい強く抱きしめたって大丈夫だと、変にずれたことを考えながら。


「アル・・・・・・、アル、ごめんな。また俺、一人で突っ走っちゃったみてぇだな」

兄さんはそっと腕を回して、僕の背中を子供あやすように、トントン叩いた。

「俺さ、お前のことすっげー大事なわけ。大切に思っているし、いつでもそばにいたいと思ってる。・・・・・・でもさ、いつまでもそばにいるわけにはいかない。いつかは、別の道を進まなくちゃいけないんだ」
そこで兄さんは、一瞬押し黙り額を僕の肩口に強く押し付けた。兄さんの身体がゆっくり震える。押し付けられた場所がじんわり熱くなって、濡れた。

「そう思ったら、離れないといけないんだって思ったら、俺、いままでアルに何てことしてたんだろうってっ・・・・・・もうずっと、俺はただアルを振り回してただけなんじゃないかって、そう思って。だけど、お前はっ、俺の気なんか知らないでっ、研究所にやってくるし。せっかくっ、人が気ぃ使って、離れてやろうと思ってるのによ」
「なんだよ、それ。そんなの僕知らないし、逆ギレかよ・・・・・・」
「俺はお前が大事なんだよ。だからもうお前のやりたいようにやらせてやろうって。俺が近くにいたら、ぜってーお前、俺のこと気にするじゃん。お前はもう、とっとと彼女でも何でも作って、俺のこと気にしないで、どっか行っちまえばいいんだ!!」

兄さんは叫ぶように言い放つと、鼻をずっと言わせて、呻く様に泣きだした。小さい身体をさらにちぢこませながら、泣いた。その小さい身体を僕はさっきよりももっと強く、抱きしめた。

「ねぇ、兄さん。僕はずっと兄さんのそばにいたいんだ。それは別に誰かに強制されたからじゃなくて、僕がそうしたいんだよ。今の僕があるのは、兄さんがいるからだ。兄さんがいるから、僕は僕でいられる。だから、勝手に離れようとか思わないで。何でもかんでも、自分で決めようとしないで。僕はここにいるんだ」

呻くように静かに泣いている兄さんに、ちゃんと伝わるように僕は何度も、そんな事を繰り返した。
ガタイのいい男が二人で、しかも兄弟で抱きつきながらボロボロ泣いてる。傍から見たら気持ち悪い兄弟だ。何をやっているんだ一体。でも、他人からどう思われても構わない。

だって、このヒトは僕の兄さんで、僕は兄さんの弟で。
それは変わることのない事実だから。



兄さん

手にしたとたん見えなくなるものがあるってのはホントだね

でも、僕らは

いったんはそれを手放しかけたけど

そのことに気づけたんだ

だからもう大丈夫だよ



握りつぶした現実に未来という名の火を点けて



(2008年3月19日から2008年5月31日までウェブ拍手として公開。)

第4話だけ長さが異常です。
お互いを思うばかり身動きが取れなくなる兄弟が好きすぎるっ・・・

だらだらと続けたこの話ですが、最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。
マジ、感謝っす。