メビウスの輪02
嫌な汗をかいた。昔の、夢だった。
首に纏わりつく髪が気持ち悪い。不快感を上昇させる。心拍数が上がっているせいか呼気が荒い。くらくらとめまいがするようだ。一つため息をついて、チェストの上にある時刻を確認する。5時38分。なんとも中途半端な時間。このまま眠るわけにもいかず――いや、たんに自分自身が眠りたくないだけだ、再びあの夢を見るのが怖い。仕方がないので起きることにした。機械鎧と比べると幾分も性能の劣る義肢を取り付け、身支度を整える。男の身支度なんて簡単なもので、15分もあれば終わってしまう。短いのも考えものだ。余った時間で余計なことを思い出し、考えてしまうのだから。
先ほどの夢が頭の中で反復される。意味のない、性行為。何も生み出す事が出来ない行為。わかっていた。倫理に反する行為だってことも知っていた。だが、あの頃の俺には、それが唯一の逃避であった。果てのない、いつ終わるとも知れない旅への不安、焦燥感。そして肉親への罪悪感。それら様々なものがぐるぐるぐるぐるぐるぐるとない混ざって精神を蝕んだ。自業自得だと分かっていても、真っ黒い何かを吐き出したくなるときがあった。
もう一つため息をつく。考えても仕様のないことだ。これ以上部屋に篭っていても如何にもならないから、いつもより早く隣の部屋に移動する。ダイニングを兼ねたリビングへ。このアパートメントの部屋は下の階で花屋を営んでいる、グレイシアさんが大家だ。
このアパートに住むことになり、初めて大家であるグレイシアさんに挨拶に行ったときは悲しくなるほど驚いた。彼女は名前が同じであれば、姿かたちも同じだった・・・・・・アメストリスのセントラルにいた彼女と。彼女たちへの罪悪感と謝罪の気持ちが一気に押し寄せてきて、出会った当初の俺は彼女の顔を真正面から見ることが出来なかった。
――ここは、この世界は、俺が今までいた世界とは全く違う。文化も科学も歴史も全てが違う。それなのに、そこにいる人はみんな同じだ。見知った人を見かけ、懐かしさのあまり声をかけたくなるが、その瞬間に回りの色彩がセピアに変わりこの場がアメストリスではないことを思い出させる。身体がひゅんとどこかに飛ばされたような気持ちになりむしゃくしゃした。だがそれも、時が経てば経つほど、苛立ちから絶望感、喪失感に変わってきた。いつしか、彩度の褪せた世界が俺を囲みはじめる。


扉を開けると、コーヒーの香りが漂っていた。新聞を広げていた同居人が顔を上げる。

「おはようございます」

同居人である彼は、俺が最も良く知る人物とやっぱりそっくりだった。仕草や喋り方などもそっくりで、ただ違うのは。

「今日は早いんですね、エドワードさん」

俺に向けられる瞳の色は太陽を彷彿とさせる金色ではなく、青。

「ああ、おはよう」

眼を合わせるたびに、認識させられる。

「・・・・・・アルフォンス」

ここは別の世界なのだと。そして彼は、俺が最も会いたい人物とは別の人間であると。

こんなにも同じ顔に出会う中、俺が最もよく知る人物と、似た顔を持つ彼の唯一の相違点を見せ付けられるたび、俺は奈落の底に落とされた気分になる。彼の青い瞳が、俺を覚醒させる。どんなに同じ顔がいて、そいつらと顔見知りになって、まるで今までと同じように平和に暮らそうとしても、彼の瞳を見たとたんに夢から覚めるんだ。ここはアメストリスじゃない。別の世界なのだと。あたりまえだ。だけど、それは終わることのない夢の牢獄に入れられた気分になって、今起きているのか寝ているのか、夢なのかそうじゃないのか、分からなくなって如何でもよくなってくる。
ふと、頭に夢がよぎった。アイツとの行為は一種の逃避方法であったな、と。だがここに、逃避する術はない。どんなにあがこうとも終わることのない悪夢が俺の精神を蝕む。


「いつもはどんなに呼んでも起きてこないのに」

アルフォンスの声が俺の意識を浮上させる。どうしても、朝は苦手だ。色んな事を考えすぎてしまう。
思考が明後日の方向に飛んでいる俺をよそにアルフォンスは珍しいこともあるものだといった顔をしてコンロの前に立つ。

「なんだよ。オレだってたまには早起きするさ」
「はは。そしたら今日はエドワードさんが朝食作ってくださいよ」

いつも僕が作るんだから。そう笑いながら、よい香りのするコーヒーを手渡してくれた。

「いいじゃねぇか、お前の方が手際いいんだから」
「また、そんなこと言って・・・・・・エドワードさんはずるいなぁ」

和やかな朝の会話。なんてことはないはずなのに、どこか苦しくてかみ合わない。


テーブルに広げられるのは、朝の定番メニュー。白ソーセージに野菜スープ。そして、嫌がらせのようにテーブルクロスの端に鎮座するミルク。喰い盛りの男2人の朝食にしては、少々物足りないところだが仕方がない。この国は戦争をしたばかりなのだから・・・・・・結果は、屈辱的なベルサイユ条約を結ばされ終わったと、ドイツ市民は言う。
白ソーセージを口に運びながら、今日行うことを確認する。ロケット研究を行う俺とアルフォンスはこれが毎朝の日課だ。

「今日はなにをするんだ?」
「え、あぁ、理論の検証だね。あと、計算が少し」

ロケットを作って宇宙へ行くんだと、幼い子供のように純粋に夢を語るアルフォンス・ハイデリヒの存在は、俺にはとても眩しい。かつては自分も、そんな綺麗な夢ではなかったけども、希望と期待に満ちた目をしていた。様々な苦悩なんかはあったけど、其れを跳ね除けるエネルギーがあった。
だけど今の俺はどうだ。悶々と日々を過ごしているだけ。一歩も、進んじゃいない。

「そうか・・・・・・じゃぁ、俺」

時間は過ぎて、刻々と変化しているが俺の中で変わることはない。この日課も慣れたもので、左から右へとアルフォンスの声が素通りしていく。眼を瞑って聞いていれば、成長した弟の声だと思えるかもしれないなどと、酷く失礼なことを考えながら。

「エドワードさん」

上の空だった俺に気付いたのか、アルフォンスが声をかけた。考えてたことが、相手に伝わらなかったかと、ひやりと身構える。そんな俺の予想とは反して、彼は青い瞳でこちらを心配そうに伺う。

「最近、元気ないですね。何かあったんですか」
「いや、なにも。・・・・・・何もないさ」

彼の優しさが痛かった。その眼に見つめられると如何にもならなくなる。叫びだして、押し倒して、ぎゅっと強く抱きしめて、抱きしめられたくなる。けど、こんなことを考えている時点で俺は終わっている。どんなに思っても彼は俺の弟じゃないんだ。わかっているのに、分かっていない精神(こころ)が恨めしい。

「夢見が悪かっただけだよ」

夢のヴィジョンが頭を駆け巡り、アルフォンスの眼を見れなかった。
無邪気に夢を語る彼に比べて、俺は汚い。



さっそく、映画を見直して書き直したい気分で一杯です・・・